2月23日は富士山の日

天城で幼少期を過ごした井上靖氏。富士山の日に寄せて沼津にある「井上靖文学館」FBに掲載された井上靖氏の文章です。



【富士山の日】
─── 学校へ行ク時モ、キンチャク淵ニ水浴ビニ行ク時モ、イツモ富士ニ見ラレテイマス。
最近郷里から送られてきた反古の束の中から、小学四年生の私の作文が出てきた。十一歳の私は、富士を見ているとは書かないで、富士に見られていると書いているのである。
これを読んだ瞬間、これまでに富士を見ていたいかなる場合の私も消え、富士に見られている私が、それに入れ替った。わが人生に於て、曾てこのように鮮やかに、何ものかが、何ものかと置き替えられた例を知らない。
富士の視野の中に置くと、私という人間も、私という人間の背負う人生も、小さく、小さくなったが、その反面、生気を帯びたものになった。伊豆で過した幼い日々、学生時代の夏の帰省、応召の日、また帰還の日、それから父、母、それぞれの葬儀の日までが、富士に見られているという、ただそれだけのことで、幽かに濡れ光ったものになった。
近く郷里を訪ねようと思う。富士を見るためでなく、富士に見られるためである。七十五歳の春を富士の視野の中に曝して、虔しく新しい仕事のことを考えたいのである。
「故里の富士」
1983(昭和58)年1月4日付毎日新聞夕刊に発表。井上靖76歳。



「富士は父、天城は母」
湯ヶ島小学校の校庭の碑に刻まれたこの言葉で、私は湯ヶ島の人々が富士に見守られて育つことを知りました。
山に囲まれた吉奈では、湯ヶ島よりも標高が低く山に登らねば富士には会えないから。

幼き頃の富士の記憶は当時76歳の彼をも奮い立たせている。遠く離れ時が経っても彼は「湯ヶ島の人」なのだろう。

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